読売ジャイアンツの主将を務め、日本を代表するプロ野球選手の1人である坂本勇人選手。
2000本安打の達成や東京オリンピックでの金メダル獲得など、華やかな野球人生を歩んでいるように見える一方、坂本選手がプロ野球選手になる前はどんな少年時代を歩んできたのか気になっている人は多いのではないでしょうか?
特に現在野球をしている人、プロ野球に興味のある人、坂本選手のファンであればとても興味がありますよね!
そこで当記事では、坂本選手の出身校について、高校・中学・小学校時代の野球の腕前やエピソードを含めてまとめていきます。
ぜひ最後までご覧ください。
坂本勇人の出身校まとめ!
- 高校:光星学院高校
- 中学:伊丹市立松崎中学校(伊丹シニア)
- 小学校:伊丹市立昆陽里小学校(昆陽里タイガース)
坂本勇人の高校時代:光星学院高等学校
坂本選手は兵庫県伊丹市出身ですが、青森県八戸市の光星学院高校(現八戸学院光星高校)に進学します。
1年秋から遊撃手(ショート)のレギュラーを獲得すると、2年春にはチームの4番打者を任されます。
2年秋の東北大会で準優勝を果たすと、第78回選抜高校野球大会に出場します。チームは1回戦の関西高校(岡山)に4-6で敗れますが、坂本選手はこの試合に4番ショートで出場し、5打数3安打1打点2盗塁の活躍を見せます。
この試合の対戦相手投手が後に日本ハムに入団するプロ注目のダース・ローマシュ匡から打ったこともあり、プロ野球のスカウトからも注目されました。
その後の春の東北大会でも、坂本選手は16打数13安打で打率.813、4本塁打の好成績を残し、注目を集めます。
3年夏の青森大会では決勝戦で青森山田高校に4-5で敗れ、甲子園出場は逃しています。この試合、坂本選手自身も4打数0安打に終わりました。
坂本選手の高校3年間での通算本塁打数は39本となっています。
上記が坂本選手の高校時代の主な成績ですが、「プロ野球選手・坂本勇人」を作り上げた大きなエピソードが2つあります!
プロ野球選手を志すようになったきっかけ
一つ目は、坂本選手がプロ野球選手を志すようになったきっかけです。
坂本選手は甲子園に出場するために光星学院高校に進学しましたが、野球の才能は群を抜いており、2年夏の大会が終了した頃からプロ野球のスカウトが坂本選手を見に来るようになりました。後に坂本選手は、その頃から本気でプロ野球選手を目指すようになったと話しています。
プロ野球選手になることを意識し始めた坂本選手は、しんどいと感じる練習でもなんとなく取り組むのではなく、プロ野球選手になるという高い意識をもって乗り越えたといいます。
スカウトの熱い視線が坂本選手がプロ野球選手になることを意識し始めたきっかけということですね!
野球部を退部しかけていた
2つ目は、野球部を退部しかけたというエピソードです。
一見、順風満帆な高校野球生活を歩んでいたように見えた坂本選手ですが、高校1年生の年末年始に地元から帰省した後、鼻と耳にピアスをつけて、監督の金沢成奉さん(現明秀日立高校監督)に「野球をやめたい」と申し出たこともあります。
その際、当時のチームの主将も何度も坂本選手に電話をかけ、金沢監督も坂本選手の友だちを通して坂本選手を説得し、坂本選手は光星学院で3年間野球を続けることになりました。
私は坂本に特に怒ることなく、部屋に呼んで、「辞める気なのか?」と「はい」と。それで帰させたのですが、彼が飛行機で伊丹に向かっている間。
彼の家族や知り合いにお願いをして、『まだこんなところで終わる選手ではない』と説得をお願いしました。そうすると1週間後に彼は戻ってきました
高校野球ドットコム
金沢監督をはじめ、仲間の説得がなければ今の坂本選手はなかったのかもしれません。
それだけ坂本選手は良い仲間に恵まれていたといえますね!
坂本勇人の中学時代:伊丹市立松崎中学校で伊丹シニアに所属!
坂本選手は伊丹シニアでプレーします。
シニアリーグは中学校の野球部とは異なり、硬式ボールを使用します。坂本選手もこの伊丹シニアで野球の技術を磨いていきました。
伊丹シニアでコーチとして坂本選手を指導した田中力さんの話によると、坂本選手は中学時代は一匹狼のような性格で、人とはあまり群れずにやりたいことに熱中するタイプだったといいます。
下級生の練習であっても面白そうな練習には興味を示し、積極的に教わりに行った坂本選手ですが、逆に面倒な練習に対しては興味を示さなかったそうです。田中さんは後に、この坂本選手の「要領の良さ」がプロ野球選手になれた要因だったかもしれないと話しています。
坂本選手は中学時代からかなり悪ガキだったというエピソードもあり、中学校から推薦状が出されず、中学3年生になっても進学先は決まっていなかったそうです。
しかし偶然、甲子園出場を目指す青森県の光星学院高校が関西に来ており、金沢成奉監督に「ヤンチャだけど素晴らしい素質を持った選手がいる」と連絡が入ったといいます。
そして、金沢監督が坂本選手を視察に訪れました。そこで金沢監督は坂本選手に惚れ込み、坂本選手の光星学院高校への進学が決まったといいます。
このエピソードからも、坂本選手と金沢監督との出会いはとても運命的と言えますね!
坂本勇人の小学生時代:伊丹市立昆陽里小学校で昆陽里タイガースに所属
坂本選手は兵庫県伊丹市の昆陽里タイガースに小学1年生から所属し、プレーしました。
同じチームには、ニューヨーク・ヤンキースでもプレーし、現在は東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する同級生の田中将大選手もいました。当時は坂本選手がピッチャー(投手)、田中選手がキャッチャー(捕手)を務めていたそうです。
ただ、坂本選手がピッチャーを務めるようになったのは6年生になってからで、5年生まではショート一筋でプレーしていました。坂本選手はチームに所属した小学1年生の時から、すでに3年生の試合に出場するなど野球センスは抜群で、打撃も左右両打席で打席に立つ「スイッチヒッター」として活躍しました。
昆陽里タイガースで坂本選手を見守った山崎三孝さんの話によると、坂本選手の野球の才能は田中選手よりも上回っており、内野守備も抜群に上手だったそうです。三遊間の深い打球に対しても追い付き、強肩で打者走者を1塁でアウトにし、相手チームからも恐れられていたと言います。
田中は練習でも何でも、黙々と取り組む子。でも、内に秘めた気持ちの強さもありました。勇人は、楽しんだり、悔しがったりが分かりやすい、活発なガキ大将でした
引用元:サンスポ
また、実は坂本選手と田中選手よりも能力の高い選手が1人いたそうで、その選手はピッチャーを務め、坂本選手はショートとして活躍していました。ピッチャーを務めていたその能力の高い選手が骨折により投げられなくなってしまい、坂本選手がピッチャーを務めるようになりました。こうして、坂本選手と田中選手がバッテリーを組むようになりました。
しかし、4月からピッチャーを始めた坂本選手は内野手投げということもあり、相手打線に良く打たれてしまい、チームも県大会に進むことはできませんでした。
坂本選手は野球以外にもサッカーもかなり上手だったそうで、野球をやめたいくらいサッカーが好きだったそうです。実際に小学5年生の時には監督の山崎三孝さん(現昆陽里タイガース理事長)に「野球をやめてサッカーをしたい」と申し出ましたが、山崎さんに「野球の才能があるのだから、野球をやりなさい」と説得されたそうです。
こうしてまとめると、当時の山崎さんの説得も、今の坂本選手に大きな影響を与えていることがわかりますね!
また、田中選手をはじめ、昆陽里タイガースで仲間と競い合ったことも坂本選手の野球に対する気持ちを高めたといえます!
まとめ
この記事では、坂本勇人選手の出身校を高校・中学・小学校時代の成績やエピソードを交えながらお伝えしてきました。
坂本選手の野球センスや向上心、日々の努力だけでなく、恩師である金沢成奉監督や山崎三孝さん、ライバルである田中将大選手や仲間の存在が、今の坂本選手を形成しているといえますね!
日本プロ野球界の右打者として初の3000本安打にも期待がかかっている坂本選手。
今後の坂本選手も応援していきたいですね!
最後までお読みいただきありがとうございました。